365の喜怒哀楽 〜 50代主婦の暮らしブログ

喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、日々の出来事を綴る日記。

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いい意味で他人に無関心になることが、不公平感から逃れ「楽」に生きるための一つのアイデアかもしれない。

2021年1月10日(日)

今日でステイホーム11日目。
人生でこれほど長く家にこもり続けたことはありません。
もう、笑ってしまうくらいです。

そんな連休の中日ですが、我が家のリビングでは朝から80年代のロックが響き渡っています。
何時間もノンストップで流れ続けている夫お気に入りのラジオステーションです。

休日くらい静かに過ごしたいのに、その願いは聞き届けられず、その音に加えて夫の歌声までが高らかに響きます。

ご近所迷惑にならないかしら?
そんな心配は無用です。我が家のお隣も向かいも下も外国人ファミリーが暮らしているので、お休みともなるとガーデンに出てはバーベキューをしたり、バスケをしたりと大騒ぎ。
ガンガンと大音量で音楽を流し、大きな話し声と笑い声が響き渡ることも日常茶飯です。

つまり、これらの騒音は「お互い様」ということで暗黙の了解。。。

もちろん近隣には日本人もたくさん暮らしていますが、こちらはこちらでピアノだ、バイオリンだと、ギーギーポロロンとまた違った音を撒き散らしているので、ここでもまた「お互い様」ということなのでしょう。

これだけ、みんな好き勝手していながら、ご近所トラブルに発展しないのは、誰かが我慢しているのか、この「お互い様精神」のせいなのか、本当のところはわかりません。

ただ一つわかっているのは、皆んな他人のことはあまり気にしていないということです。

そして、気にしていないからこその、許容性というのでしょうか、自分が許させていると思うと同時に、他人のすることも当然受け入れるという姿勢が透けて見えます。

ルールがない状態では、善か悪かを判断するのではなく、曖昧に、大雑把に、事を受け流すことで、凪の状態を保っているのかも知れません。





しかし、これも簡単なようでいて、その実なかなか難しく、事によってはそんな悠長な事は言っていられないといったケースもあります。

例えばコロナ禍においての感染対策など、マスクするしない、外出するしないも、実質上縛りがない中では全て個人の判断となります。

しかし、そこに許容性は見えず、逆に分断を生む結果にもなっています。

こちらは我慢しているのに、なぜ好き勝手する?

このように、不公平感を露わにする人は多くいます。
Twitterなどを見ていて常々思うのは、人々の不満とは、この「不公平感」によるものがもっとも大きな原因となっているのではということ。

人が自分よりも幸せに見えたり、自分がやりたくてもできないことをしていたり、欲しくても持てないものを持っていたりするのを「不公平」と思う人もいます。

コロナ禍のgo to キャンペーンでは、フル活用する人、まったく使うことのない人の間で、この不公平感を唱える人が多くいました。

ここにコロナ感染のリスクが加わると、余計に話がややこしくなってきます。

不公平感に加えて「迷惑」というワードが出てきます。

コロナ禍で好き勝手振る舞うことは、他人を感染させる可能性もある。つまり、自分の身勝手な行動で他人が命を落とす可能性もあるということです。

人に迷惑をかけるようなことはやめましょう。ということになります。
これは誰もが子供の頃から数えきれないほど耳にしてきた言葉ではないでしょうか。

そんな事を刷り込まれてきた反面、「人はお互いに迷惑をかけ合って、助け合って生きていくもの。」
そんな言葉を聞くことも少なくありません。

困った時は迷惑になるなどと考えず、誰かに助けを求めましょうと。

それは、このコロナ禍においても同じなのでしょうか。





好き勝手した挙句、人に迷惑をかけた人にさえも、救いの手を差し伸べよということになりますが。。。

人を助けることに理由はいりません。
医者はどんな凶悪犯罪者でも、医者としての責任を全うするために、世の中に害を与える人の命さえ救おうと尽力します。
助けるか、助けないかという選択はなく、あるのは命を救ったか否かという結果があるのみです。

このコロナ禍においても、医療従事者には大変な負担が強いられている状態です。
自分は絶対に感染してはならぬとしたいことも我慢し、日々コロナ患者を救うために働いている中、もしかしたら好き勝手遊んでいて感染したかもしれない人を必死で看護するのです。

こんなケースでは、不公平感が出ても当然でしょう。
人に迷惑をかけまいと我慢している人がいる一方で、我慢せずに好き勝手している人まで何かあれば当然のように救ってもらえるということに対して。。。

このコロナ禍では、あらゆる問題が浮き彫りになりました。
未曾有ともいえる事態に人がどう動くのか、国がどう判断を下すのか、未来はわかずとも学びとなることもあります。

人は他者に迷惑をかけないように生きなければいけない。

人は迷惑をかけ合いながら、共に助け合って生きていくもの。

二つの矛盾する考え、そして人々の感じる不公平感。

確かに知らず知らずのうちに、誰もが誰かしらに迷惑をかけていることもあるかもしれません。困った時に人を頼ることも必要でしょう。

しかし、それが前提で生きていくのは、あまりにも心許ない生き方ではないかと私は思ってしまいます。





確固とした判断の基準はなくても、少しの想像力があれば、どうするべきか答えは出るでしょう。

他人のすることを見て、比較するからこそ不公平であると感じます。これは心を荒ませるだけなので、避けて通るべき道です。
他人がどう感じ、どう行動するかを見るのではなく、シンプルに必要な情報だけを拾い、想像するだけでいいのではないかと私は思うのです。

例えば、コロナ禍では感染者数がどれだけ増加したか、病床数の空き具合などを見て、危険であると想像できたら感染防止に沿った生活をすればいいのです。

渋谷のライブカメラをのぞいてみたり、Twitterでどこの誰か分からない人が、楽しそうに遊んでいる様子をみる必要はありません。
知らなければ、きっとみんな自分と同じように我慢しているのだろうな。それがあたりまえだもの。。。そう考え、不公平感も生まれません。





我が家周辺のご近所騒音も、きっとそういうことなのかと思います。

徹底した個人主義である欧米人は、他人に対して無関心なところがあります。なによりも自分を一番に考えるからです。
そこにマナーはあっても、他人に迷惑をかけてはいけないという配慮は見えません。

我が家の夫もそうです。家族がどんなに迷惑するかなど想像しようともしません。
ただ、自分がご機嫌な音楽を楽しみたいという欲求を満たそうとすることだけに目を向けているのです。

ただし、「うるさいから止めて」と、こちらが自己主張すれば従います。

きっとご近所で騒いでいる外国人達も「静かにしてください」と言えば、静かにするのでしょう。

幸いなことに、私も含めご近所から流れてくる「音」が気になる人はあまりいないようで、毎度揉め事もなく楽しそうな雰囲気だけが平和に流れています。

ある意味、他者の言動に対して無関心でいることが、自身の心の平静を保つことになるのかもしれません。

干渉しないこと、されないことが前提となった許容性によって、ご近所平和は保たれているようです。。。





ちなみに今日は、日本の思想家であり教育者としても著名な福沢諭吉さんの生まれた日です。

数々の肩書きを持つ福沢諭吉さんですが、なんといっても一万円札の肖像というのが一番わかりやすいところでしょう。

我々世代はついつい「あ〜、また聖徳太子が出て行ったわ」などと口を滑らせ、年齢を自ら暴露しがちでしたが、そろそろ慣れきましたね。
一万円札=諭吉さんだと。

諭吉さんといえば、慶應義塾創始者としても知られています。
幼稚舎ともなれば、選ばれた者のみといったセレブ感満載の学校ですが、その門戸が開かれるのが大学受験です。
まさに受験目前の今、慶應目指して受験勉強に励んでいる若者が多くいることと思います。

こんなコロナ禍ですが、未来ある若者達の明るい未来をお祈りしています。