2021年2月20日(土)
あっという間に巡ってきた週末。
私の静かな朝時間は夫によって妨害されるのは常ですが、週末だけはお寝坊さんのため、比較的静かに過ごせるのです。
しかし今朝は違いました。
夫は毎晩老化防止と称して筋トレなどエクセサイズを欠かさない運動オタクですが、昨夜は仕事の疲れから日課のエクセサイズをしないまま寝てしまいました。
それがどうも気持ち悪かったようで、今朝は朝早くから「運動してくるぞー!」とバタバタ。
私がベランダに出て、お花のお世話をせっせとやっている背中に向かって、
あのTシャツは?
あのタオルは?
あのソックスは?
うるさいです。。。いつも決まった場所にあるのに、必ず私を巻き込みます。
ようやく出て行って静かになったと思ったら、小一時間で帰ってきて、バタバタとシャワーを浴びた後はまた外出の支度。
「今日は半日だけ休日出勤だ!」
だそう。。。
海外からビジネスで来日している方とミーティングだとかで、お休みなのに出勤だとまたバタバタ。
ようやく静かになったのは、昼近くなってからのことでした。
午前中はバタバタとしていたものの、午後は仕事に行ってくれたので、私にとっては静かに過ごすことができ、サプライズのプレゼントでももらったようでした。
ほとんどの人にとっては心待ちにしている週末でしょうが、私にとっては我慢の2日間なので、この静けさは棚からぼたもちでした。
「亭主元気で留守がいい」
若い頃は、なんと酷いことを言うの?などと思っていましたが、今となってはそれも激しく納得。首が取れのではないかというくらいブンブン頷きたくなるほど同意です。
人によっては旦那さまと一緒にいたいという方もいるでしょう。
私の知人にもいました。いつでも旦那さまがいなければダメという人が。
旦那さまがいなければ、一人では何もできない女性で、子供の学校関係から役所の手続き、携帯電話の契約、それこそ一人でお茶を飲みいくこともできないと、常に旦那さまを携えていました。
旦那さまの方はといえば、そんな状況に辟易としていて、結果的にその夫婦は離婚してしまいました。
あんなに四六時中ビッタリとりくっついていられたら、さすがにストレスが溜まるのは想像に難くありません。
私なら一年ともたなかったでしょう。
パーソナルタイム、パーソナルスペースは、人間にとって必要不可欠です。
人との絆が重要視される昨今、特にこのコロナ禍では孤独が問題視されています。
人は独りでは生きていけないと言われているように、確かに人と人との絆は大切なものだと思います。
しかし、人との関わり合いによって、逆に心を病んでしまう人も同時にいます。
人との絆が同時にしがらみや束縛といった意味を持つこともあります。
そうなると、自由を奪い縛り合う関係にもなりかねません。
「家族の絆」などがそのいい例です。
どんな関係であっても切っても切れない縁に終生つき纏われるのですから。
今日もそうでした。実家の人間から昼過ぎにメールがきて、
「家にいますか?」
これに「はい」と答え、ほどなくすると、玄関のチャイムが鳴るのはいつものこと。
「これから行ってもいいですか?」
ではないのです。
たとえ在宅していても、具合が悪いこともあれば、家でやらなければならないことが山積みということもあります。
それでも留守か在宅かを確認するだけで、こちらの事情には全く頓着しません。
あちらが行きたいと思えば、行くのが当然だと思っているのです。
何度もこちらにも予定があるので、そのようなことは困ると言っていますが、もう何十年も同じです。
「家にいますか?」と尋ね、それから何の連絡もよこさずにドタキャンということもあります。
今日がまさにそうでした。待っても待ってもこないので、「何時にくるのですか?」と尋ねると、「やっぱり今日はやめました」という返答。。。
これは家族だからこそ許されることで(本来なら家族でも許されないと思いますが)、他人様には決してしないことです。
「絆」にも、いろいろあります。
よい絆だけではありません。
それを思えば、簡単に「絆は大切」などとは思えないのです。
私は昔から独り行動する方が気楽だったので、食事も旅も仕事も、なるべく独りでしたいと思っていました。
自分から求めたことなので、そんな時は孤独を感じることはありません。
人間はひとりで産まれ、ひとりで死んでいくものです。
どんな深い絆を持っている人とでも、その時を同じくすることはできません。
所詮、人間は孤独なもの。
そんな気持ちが根底にはいつもあります。
昔、子供達がまだ小学生の頃。学校では例に漏れずいじめ問題がありました。
我が家の子供達はそのターゲットではありませんてしたが、私がいつも子供達に言っていたことがあります。
「独りでいることを恐れてはいけない」
たとえクラス全員に無視されても、一緒にお弁当を食べる相手がいなくても、独りでいることを怖がらなければどうということはない。
独りでいることが当たり前と思えれば、孤独も辛いものではない。
ただ、そのいじめが暴力であったり、物を破損させたりといったケースは別です。
このような時は、保護者や教師など大人が介在し解決すべき問題なので、絶対に報告するようにと、そんなことを言ってきました。
幸い酷いいじめに遭うようなことはなかったようですが、この「独りでいることが当たり前」という考えのおかげで、どこにいても臆することなく、ひとりで行動できるようになったといいます。
ただ、人は一人一人違った個性、違った性格を持っています。
人によっては「独りが苦手」だという人もいます。
人と同じ行動をすることで安心するという人もいます。
結局のところ、絆を求めるのも、孤独を求めるのも、その人次第ということです。
「どう生きるか」という問いに、おそらく正解はないのだと思います。
私は物事を極端に白か黒かで選択するようなところがあるのですが、子供達からよく指摘されるのは、真ん中もあるという考え方です。
時に人との絆を求め、また違った時には孤独を楽しむ。
そんな風にバランスをとりながら生きていくことが、実は一番賢い生き方なのかもしれません。
実際、今の自分も家族とワイワイやりながら、時にそんな時間を楽しみつつ、やっぱりひとりの時間も欲しいのよ。静かにしてよ!と、そんな風に暮らしているのですから。
子供達の方が、賢いようです。。。(笑)
とにかく、どんな生き方を選択しようが、自分が幸せだと思えること。自分が心から楽しいと思える時間を過ごすこと。
それが一番大切なことなのではないかなと、結論を言えばそういうことですね。
ちなみに今日は、国文学者であり小説家でもある林望さんの生まれた日です。
昔々、今から30年以上も前になりますが、私は林望さんの書いた何冊ものエッセイを何度も何度も繰り返し読んでいました。
ちょうど私がイギリスへ渡る前のことです。
当時は今と違ってインターネットなど普及しておらず、渡航についてや現地の情報などは、書物に頼るとか、観光案内所のような所で資料を探すとか、実際に留学経験した人から話を聞くとか、それくらいしかありませんでした。
コーディネーターなどに依頼することなく、単独で渡英しようとしていた私にとって、とにかくどんな些細なことでも、現地の様子が知りたいと関連の書物を読み漁りました。
その中で、一番現地での生活の様子がわかり、かつ楽しく読めたのが林望さんの著書でした。
特に食文化など、私にとってはものすごく大切なことに関して、とても丁寧に説明されていて、本当に役に立ちました。
あの本を繰り返し読んでおいたことが功を奏したのか、イギリスへ渡ったあとは楽しく過ごすことができました。
今ではあらゆる情報がスマホやパソコンなど、指一本で得られる時代です。
もしもあの頃すでにそんな時代であったら、きっと出会わなかった作家だったでしょう。
繰り返し読む本以外はたいがい断捨離してしまうのですが、林望さんのエッセイ本は何十年も開かれないまま、断捨離されることなく、本棚に収まっています。
今読んでも当時と同じ感動はないかもしれませんが、あの頃とは違った感じ方ができるのか、ちょっと興味深くもあります。
そのうち、気が向いたら開いてみることにします。