365の喜怒哀楽 〜 50代主婦の暮らしブログ

喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、日々の出来事を綴る日記。

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12日間の引きこもりの後。楽じゃなくてもやっぱり外の方がいい!と、活力がわいてきた「喜」

2021年1月12日(火)

今日の東京は雪の予報が出ていましたが、雨がしとしと降っただけで雪にはなりませんでした。

そんな寒い日でしたが、今日は今年初めて外に出ました。

腰痛の方も多少の痛みは感じるものの、普通に歩けるようになったので、振り込みなど近所の銀行へ行って用事を済ませ、ついでに近隣をぶらりと散歩しました。

午前中だったせいか、ほとんどの飲食店は閉まっていて、休業や時短営業を知らせる貼り紙がそこかしこに貼られていました。

車や人は普段とあまり変わらないようですが、なんとなく閑散としていて、活気が感じられません。

それでも、やはり外に出るのは気持ちのいいものだなと思いました。

12日間も完全に閉じこもっていたなんて、病気で入院した時以来でしょうか?
いえ、入院していた時でさえ、こっそり病室を抜け出して、お散歩くらいは出ていましたから、これほど長期間、家から出なかったのは、おそらく生まれて初めての経験だったかもしれません。





閉じこもっているときは、これはこれで案外快適かも?

引きこもる時間が長くなるほど、そんなふうに思うようになりました。

メイクも外出着に着替える必要もなし。欲しいものがあればネットでオーダーしてもいいですし、家族に頼んだりもできます。

何もしなくても、好きなものを食べて、好きなことをして過ごしているのですから快適でないわけがありません。

それでも、心の隅で「こんなに引きこもっていてはいけない」と、そんなことも思っていました。

腰痛のため仕方なく始まったおこもりでしたが、少し無理をすればもっと早く外に出ることはできたかもしれません。
それでも2週間近くも引きこもっていたのは、楽だったからでしょう。

そんな楽な生活を終わりにして、いざ外に出てみれば、「やっぱり外はいいなぁ」と、無理をしてでももっと早く出てみればよかったなどと思うのです。

動き出すと、大変なこと、面倒なこと、厄介なことがたくさんあります。
それは中にこもっていたら避けられることかもしれません。

それでも「外の方が楽しい」と思えるのが不思議です。

別に誰かと会って話をしたり、食事を共にしたりしなくても、楽しいのです。
それは多分「変化」が実感できるせいなのかもしれません。





物事が動いている様子を見ると、なんとなく自分にも活力が湧いてくるように感じます。
「何かしたい」という気持ちです。

引きこもっている時は、それとはまったく逆で、「なにもしたくない」「ゆっくりしたい」と思い、たとえ家の中でもやるべきことを先延ばしにしたり、あえて見ないふりをしたりと怠惰になりがちでした。

それが一歩外に出た途端、やる気が湧いてくるのですから不思議です。

今は緊急事態宣言下なので、あれもこれもとやりたかったことすべてができるわけではありません。
そこはとってももどかしいところですが、「なにもしたくない」と留まっているのは、やはり時間の無駄です。

2週間近いおこもりは、私にとって十分な時間でした。
今年はもう休まなくてもいいというくらい、ゆっくりした気分です。今は。。。

やりたくてもできないことでも、準備をしておくことや、気持ちを整えておくことはできます。

今年も楽しく、後悔なく過ごせるように、ちょっとやる気を出さねば!そう思った一日でした。。。





ちなみに今日は、作家である村上春樹さんの生まれた日です。

新作が出るたびにハルキストと呼ばれる熱狂的なファンがわさわさするという人気の作家さんです。

昨今ではノーベル文学賞といえば名前があがるほど、世界的に有名になられましたが、昔は駿河台あたりでちらちらとその姿を目にしたものでした。

30年ほど前と、また古い話になりますが、その当時、私は神田駿河台にある「山の上ホテル」によくお茶を飲みに行っていました。

昔は今のようにカフェが乱立していなかったので、ホテルでお茶を飲むことも多かったのです。

大きな煌びやかなホテルではありません。高台に立つこじんまりとしたホテルでしたが、こちらの小さなティールームが好きで、疲れた時などはふらりと立ち寄り、ひとりでぼんやりとお茶とケーキを楽しんでいました。

そんな頃にお見かけしたのが村上春樹さんでした。

ちょうど『ノルウェイの森』が出版される前だったか、後だったか、それくらいの時期だったと記憶しています。

このホテルは作家の先生方が執筆する際のおこもりホテルとしても有名だったので、きっと村上春樹さんもお仕事をしていたのかもしれません。

作家の先生というよりは、南カルフォルニアあたりにいるお兄さんといった感じだったのを覚えています。

ハルキストと呼ばれるほど熱狂的なファンではありませんが、村上作品は私も人並みに楽しんできました。
中でも「鼠三部作」と呼ばれる初期の作品が好きです。あのリズミカルで軽妙な文章と、そこに現れる隠喩など、初めて読んだときはかなり斬新に映ったものです。

72歳になられる村上春樹さんですが、お若く見えます。写真などで近影を見る限り、あの山の上ホテルでお見かけした当時とほとんど変わりない若々しいお姿です。

きっと近い将来、ノーベル文学賞作家となられることでしょう。

そうなるといいなぁ。

晴れ着や成人式に背を向けて過ごした成人の日に後悔はなし。自分だけの成人式ができた「喜」

2021年1月11日(月)

今日は成人の日ですね。そしてゾロ目です。関係ありませんが、昔から何故かゾロ目に反応してしまいます。

それはともかく、三連休最終日ですが、今日も家におこもりでした。
腰の方はずいぶんよくなり、ようやく普通に動けるようになってきましたが、緊急事態宣言中につき、不要不急の外出はいたしません。

今日は成人の日ということもあって、街はそこそこの人出だったようですね。
私の住む地域でも成人式は中止となりました。都内のほとんどの区が式を見送ったようですが、お着物の用意などをしていた人はきっと大変だったでしょう。

成人式のお支度は一年前の予約では遅いと言われるくらい、皆さん早くから準備に取り掛かっているもの。
それが土壇場になってキャンセルになったら、とってもガッカリなさったことだろうと思います。

我が家にも来年成人を迎える末娘がおりますが、コロナがどうなるかわからない状況では、動きようがありません。。。

本人が人並みに振袖を着て、成人式に参加したければの話ですが。。。





三十数年前の成人の日。
私は振袖も着なければ、成人式にも出ませんでした。
特に理由はありません。ただ、振袖も着たいと思わなかったし、成人式に参加するのも嫌だった。それだけです(笑)

窮屈な着物を着て、知らないおじさんのお話を聞きに行くなど、時間の無駄と思っていたのでしょう。

親としては、何かしらお祝いがしたかったのだと思います。振袖を着ないのなら、代わりに欲しいものを言いなさいと言われたので、遠慮なく振袖よりも高いものを買ってもらいました。

成人の日には、その買ってもらったものを身につけて、幼馴染と二人で青山や表参道をぶらぶらして、食事をしたり、お茶を飲んだりし、ついでだから初詣でもしようかと明治神宮にお詣りに行きました。

新年だったせいか、たまたま参道に氷の彫刻が並んでいて、それがキラキラとしてとても綺麗でした。

「ああ、なんと素敵な成人の日だろう」

その中の一つ、鶴の形をした氷の彫刻を見た時、「よい日だな〜」と、ぼんやり明るい未来が想像できたのを思い出します。

とても自分らしい成人の日だったと今でも、式に参加しなかった選択は間違っていなかったと胸を張って言えます。





振袖姿の写真や成人式で大勢の友人と記念撮影など、そんな形に残るものはなにもありませんが、「あの時、そんな写真の一枚も撮っておけばよかった」と、後悔したことは一度もありません。

元々、記念になるとか、思い出になるとか、そういったことに関心がなかったせいかもしれません。

今でもそれは変わらず、誕生日や結婚記念日なども、特別なことをしようと思いません。ただ、いつもと同じ一日と思っています。

ただ、夫は私とは全く逆のメランコリック男なので、事あるごとに何か残そうとします。
それはそれは大袈裟なくらいに。。。

私の代わりにこのメランコリック男が色々なものを残しているので、子供達が若い頃の写真を見たがった時なども困ることはありません。

成人式の写真など、あってもなくてもどちらでもいい。。。その程度のもの。
今でもそう思っています。

ただ、それは人によりけりのようです。
私のように特に成人式をしなかった別の友人などは、若くて綺麗なときに振袖姿を残しておけばよかった。。。
そう後悔したそうです。





冗談まじりに「後ろは振り向かずに生きていく」などと、言っていますが、歳を追うごとに昔のことをよく思い出すようになりました。

人生のうちで、ハイライトとも言えるエキサイティングな出来事は、ほとんど10代、20代の頃に経験したことばかりです。

そして、そんなよき思い出は、頭の中にたくさん詰まっています。
形などなくても、自分が忘れたくなければ覚えていればいいだけ。
それほど大切な思い出ならば、簡単には消えません。

振袖姿の写真だとか、成人式でもらう記念品など、私にとってはあってもなくても同じです。
それは20歳だった頃も、50代となったいまも変わりません。

三子の魂百まで。。。

ただ、成人の日の朝、両親が家を出る私を玄関先で撮影した写真が残っています。
親として、なにか思い出を残しておきたかったのかもしれません。

その想いは、自分が親となった時にわかりました。

我が家の長女も私と全く同じ。。。
晴れ着も成人式への出席も必要なしと、成人の日は好きに過ごしました。

少しおめかしをして出かける娘を「ちょっと待って!」と、呼び止め、玄関先でパシャリと記念の写真を撮りました。

「これがあの子の成人の日」

その一枚は一人の子を育て上げたという証明書のようなもの。

自分に区切りをつけるために、必要な一枚だったのです。





ちなみに今日は、韓国の女優であるソン・イェジンさんの生まれた日です。

昨年大ヒットした『愛の不時着』という韓流ドラマでヒロインを演じ、一躍有名になった女優さんですが、最近では相手役を演じたヒョンビンさんとの熱愛も話題になりましたね。

実のところ、私はあまり好みの女優さんではありません。とても美しい方ですが、あのクニャッとした笑顔がダメなのです。
同じ可愛い系女優なら、『キム秘書はいったいなぜ』のような、整いすぎているくらいの人工的なお顔が好きです(笑)

それにしても、イェジンさんは39歳という年齢になるのですね。とてもお若く見えます。
そして、あの素敵なヒョンビンさんが若いぴちぴちの女子ではなく、39歳のイェジンさんを選んだところがすごい!
きっと、このニュースに希望を見出したアラフォー女子もいることでしょう。

コロナ禍以降、すっかり韓流ドラマにハマっているので、語り出したら止まりません。

アンニョン〜

いい意味で他人に無関心になることが、不公平感から逃れ「楽」に生きるための一つのアイデアかもしれない。

2021年1月10日(日)

今日でステイホーム11日目。
人生でこれほど長く家にこもり続けたことはありません。
もう、笑ってしまうくらいです。

そんな連休の中日ですが、我が家のリビングでは朝から80年代のロックが響き渡っています。
何時間もノンストップで流れ続けている夫お気に入りのラジオステーションです。

休日くらい静かに過ごしたいのに、その願いは聞き届けられず、その音に加えて夫の歌声までが高らかに響きます。

ご近所迷惑にならないかしら?
そんな心配は無用です。我が家のお隣も向かいも下も外国人ファミリーが暮らしているので、お休みともなるとガーデンに出てはバーベキューをしたり、バスケをしたりと大騒ぎ。
ガンガンと大音量で音楽を流し、大きな話し声と笑い声が響き渡ることも日常茶飯です。

つまり、これらの騒音は「お互い様」ということで暗黙の了解。。。

もちろん近隣には日本人もたくさん暮らしていますが、こちらはこちらでピアノだ、バイオリンだと、ギーギーポロロンとまた違った音を撒き散らしているので、ここでもまた「お互い様」ということなのでしょう。

これだけ、みんな好き勝手していながら、ご近所トラブルに発展しないのは、誰かが我慢しているのか、この「お互い様精神」のせいなのか、本当のところはわかりません。

ただ一つわかっているのは、皆んな他人のことはあまり気にしていないということです。

そして、気にしていないからこその、許容性というのでしょうか、自分が許させていると思うと同時に、他人のすることも当然受け入れるという姿勢が透けて見えます。

ルールがない状態では、善か悪かを判断するのではなく、曖昧に、大雑把に、事を受け流すことで、凪の状態を保っているのかも知れません。





しかし、これも簡単なようでいて、その実なかなか難しく、事によってはそんな悠長な事は言っていられないといったケースもあります。

例えばコロナ禍においての感染対策など、マスクするしない、外出するしないも、実質上縛りがない中では全て個人の判断となります。

しかし、そこに許容性は見えず、逆に分断を生む結果にもなっています。

こちらは我慢しているのに、なぜ好き勝手する?

このように、不公平感を露わにする人は多くいます。
Twitterなどを見ていて常々思うのは、人々の不満とは、この「不公平感」によるものがもっとも大きな原因となっているのではということ。

人が自分よりも幸せに見えたり、自分がやりたくてもできないことをしていたり、欲しくても持てないものを持っていたりするのを「不公平」と思う人もいます。

コロナ禍のgo to キャンペーンでは、フル活用する人、まったく使うことのない人の間で、この不公平感を唱える人が多くいました。

ここにコロナ感染のリスクが加わると、余計に話がややこしくなってきます。

不公平感に加えて「迷惑」というワードが出てきます。

コロナ禍で好き勝手振る舞うことは、他人を感染させる可能性もある。つまり、自分の身勝手な行動で他人が命を落とす可能性もあるということです。

人に迷惑をかけるようなことはやめましょう。ということになります。
これは誰もが子供の頃から数えきれないほど耳にしてきた言葉ではないでしょうか。

そんな事を刷り込まれてきた反面、「人はお互いに迷惑をかけ合って、助け合って生きていくもの。」
そんな言葉を聞くことも少なくありません。

困った時は迷惑になるなどと考えず、誰かに助けを求めましょうと。

それは、このコロナ禍においても同じなのでしょうか。





好き勝手した挙句、人に迷惑をかけた人にさえも、救いの手を差し伸べよということになりますが。。。

人を助けることに理由はいりません。
医者はどんな凶悪犯罪者でも、医者としての責任を全うするために、世の中に害を与える人の命さえ救おうと尽力します。
助けるか、助けないかという選択はなく、あるのは命を救ったか否かという結果があるのみです。

このコロナ禍においても、医療従事者には大変な負担が強いられている状態です。
自分は絶対に感染してはならぬとしたいことも我慢し、日々コロナ患者を救うために働いている中、もしかしたら好き勝手遊んでいて感染したかもしれない人を必死で看護するのです。

こんなケースでは、不公平感が出ても当然でしょう。
人に迷惑をかけまいと我慢している人がいる一方で、我慢せずに好き勝手している人まで何かあれば当然のように救ってもらえるということに対して。。。

このコロナ禍では、あらゆる問題が浮き彫りになりました。
未曾有ともいえる事態に人がどう動くのか、国がどう判断を下すのか、未来はわかずとも学びとなることもあります。

人は他者に迷惑をかけないように生きなければいけない。

人は迷惑をかけ合いながら、共に助け合って生きていくもの。

二つの矛盾する考え、そして人々の感じる不公平感。

確かに知らず知らずのうちに、誰もが誰かしらに迷惑をかけていることもあるかもしれません。困った時に人を頼ることも必要でしょう。

しかし、それが前提で生きていくのは、あまりにも心許ない生き方ではないかと私は思ってしまいます。





確固とした判断の基準はなくても、少しの想像力があれば、どうするべきか答えは出るでしょう。

他人のすることを見て、比較するからこそ不公平であると感じます。これは心を荒ませるだけなので、避けて通るべき道です。
他人がどう感じ、どう行動するかを見るのではなく、シンプルに必要な情報だけを拾い、想像するだけでいいのではないかと私は思うのです。

例えば、コロナ禍では感染者数がどれだけ増加したか、病床数の空き具合などを見て、危険であると想像できたら感染防止に沿った生活をすればいいのです。

渋谷のライブカメラをのぞいてみたり、Twitterでどこの誰か分からない人が、楽しそうに遊んでいる様子をみる必要はありません。
知らなければ、きっとみんな自分と同じように我慢しているのだろうな。それがあたりまえだもの。。。そう考え、不公平感も生まれません。





我が家周辺のご近所騒音も、きっとそういうことなのかと思います。

徹底した個人主義である欧米人は、他人に対して無関心なところがあります。なによりも自分を一番に考えるからです。
そこにマナーはあっても、他人に迷惑をかけてはいけないという配慮は見えません。

我が家の夫もそうです。家族がどんなに迷惑するかなど想像しようともしません。
ただ、自分がご機嫌な音楽を楽しみたいという欲求を満たそうとすることだけに目を向けているのです。

ただし、「うるさいから止めて」と、こちらが自己主張すれば従います。

きっとご近所で騒いでいる外国人達も「静かにしてください」と言えば、静かにするのでしょう。

幸いなことに、私も含めご近所から流れてくる「音」が気になる人はあまりいないようで、毎度揉め事もなく楽しそうな雰囲気だけが平和に流れています。

ある意味、他者の言動に対して無関心でいることが、自身の心の平静を保つことになるのかもしれません。

干渉しないこと、されないことが前提となった許容性によって、ご近所平和は保たれているようです。。。





ちなみに今日は、日本の思想家であり教育者としても著名な福沢諭吉さんの生まれた日です。

数々の肩書きを持つ福沢諭吉さんですが、なんといっても一万円札の肖像というのが一番わかりやすいところでしょう。

我々世代はついつい「あ〜、また聖徳太子が出て行ったわ」などと口を滑らせ、年齢を自ら暴露しがちでしたが、そろそろ慣れきましたね。
一万円札=諭吉さんだと。

諭吉さんといえば、慶應義塾創始者としても知られています。
幼稚舎ともなれば、選ばれた者のみといったセレブ感満載の学校ですが、その門戸が開かれるのが大学受験です。
まさに受験目前の今、慶應目指して受験勉強に励んでいる若者が多くいることと思います。

こんなコロナ禍ですが、未来ある若者達の明るい未来をお祈りしています。

コロナ禍において必要なのは常識ではなく自己愛という母にロックダウン宣言された家族の「哀」

2021年1月9日(土)

今日から三連休です。
かなり腰痛の方もよくなってきたので、家の中でちょこまかと動いています。

お正月用に買っておいたお肉が消費さぬまま冷凍庫に詰まっているので、これをなんとか一掃しようと、メニューを考えていたところ、夫は「焼肉が食べたい!」と大騒ぎしたので、渋々ながら家族でお家焼肉をしました。

普段は家で焼肉は絶対にしません。気密性の高いマンションでは、部屋のカーテンや壁などに臭いがつきます。テーブル周りも飛んだ脂でペトペトになるので、食後のお掃除も面倒です。

焼肉は焼肉屋さんでのみ。

長年の決め事も緊急事態宣言下ではまっとうすることはできないようです。。。

飲食店の営業は8時まで。6時前に入店すればゆっくり食事ができないこともありませんが、緊急事態宣言中とあれば、やはり外食を控えるのが常識的な判断かなと思ったのです。


と、ここでふと、果たして私は「常識」だからと焼肉屋へ行くことをしなかったのだろうか?と考えたのでした。





常識とは社会を構成する上であたりまえとなっている社会的な知識、価値観、判断力のことだそうです。

しかし、かの著名な科学者、アインシュタインは「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」とも言っています。

アインシュタインに傾倒していたわけではありませんが、若い頃から「常識」という言葉を聞くたびに、首を傾げることが多くありました。
今では大人になったので、人様に判るようなリアクションは避けていますが、事あるごとに「常識」と言われることに心の中で首を傾げています。

天邪鬼な性格ゆえ、これはもう治らないと思っていましたが、私もこのコロナ禍でようやく社会の一員として健全な考え方も持つようになったのかしら⁉︎ と、多少の安堵を覚えたものの。。。

よくよく考えてみれば、このコロナに関して言えば、常識というよりも、ただただ「自分が感染したくない!」そんな思いしかないような。。。

他人に感染させるリスクを考えよ!との言葉をこのコロナ禍ではたびたび耳にしました。
しかし、人は自分が一番大切なものです。どんなに心優しい人であろうとも、マザーテレサさながら自分に犠牲を強いてまで、他者に尽くそうと思う人は極々稀であるはずです。

ここまで感染が広がれば、誰もが感染するリスクを負っていると言えます。きちんと「常識」をもって生活していても、運悪く感染してしまう人もいるでしょう。

しかし、自らリスク承知の上で行動している人がいるから、ここまで感染が拡大しているとも言えます。

そんな方々を世間では「非常識」であると糾弾しますが、私が思うのは「自己愛が足りない」です。





「常識」というものに対して、普段から「えっ?」と思うことの多い私のような人間であれば、自粛することが常識だと言われても、あまり響きません。

なぜ自粛するかと言えば、前途した通り、自分が大切だからなのです。

感染し退屈な場所に閉じ込められる苦痛、最悪コロナによる症状によっては身体的苦痛も伴います。
そんなことを想像すると、なんとしてでもコロナ感染から自分を守らなければ!と思うのです。
つまり自粛する理由は「常識」ではなく、「自己愛」からといえます。

いま、自粛をせずに街で遊び歩いている人は、自分を大切にしてないのではないかとも思えます。
自分を大切にできない人であれば、当然のことながら他人に配慮などしないでしょう。

優先順位第一の自分にリスクを負わせる人が、他人に感染させるかも?などと気遣いをするわけがありません。

本当かどうかはわかりませんが、報道では若い方の感染者が多いと言われています。

我が家にも遊びたい盛りの20歳前後の子供が二人いますが、不要不急の外出は禁止しています。

「我が家は緊急事態宣言ではなく、ロックダウンよ!」

そんな母の鶴の一声によって、友達との約束もキャンセルし、家で大人しくしています。
それもこれも、子供達からの家族感染を恐れてのこと。

「みんな普通に遊んでるよ」

SNSで発信される楽しそうな様子を見ながら、大学生の娘からは不満の声が上がります。

周りが遊びまわっている中、自粛を強いるのは酷だと思いながらも、我が身が可愛い私。

「遊びたければ、一人暮らしをせよ。この家で暮らす者すべて、不要不急の外出は禁止!」

もはや、常識以前に自己愛全開でロックダウンを強行しているのです。





今日、ちょっとした治療のためにクリニックへ出かけた夫によると、街は以前の緊急事態宣言時とは違い、結構な人出だったとのこと。

やはり人の動きを止めるのは難しいようです。特に今回は学校も休校ではなく、受験生にとっては動かざるを得ない時期です。
我が家の受験生も学校はもちろん繁華街に近い予備校へも毎日通っています。

自己愛の強い母とはいえ、さすがに「行ってはならぬ」とまでは言えません。
人生の大きな岐路の一つである大学受験です。後悔なきようトライしてもらいたいと思っています。

緊急事態宣言下に外出している人の中には、仕事や学校、病院など、各々の事情で外出せざるを得ない人も多くいるのでしょう。

また緊急事態宣言でビジネスに影響が出たり、生活が困窮する可能性もあるという人もいるはずです。

そう考えると、このコロナ禍においての「常識」とは一体なんなのか、どうすることが正しいのかすらわからなくなります。

ただ思うのは、自己愛を貫ける自分は幸せだということです。
そして、結局のところ自分がどうすればいいのかは、常識に頼ることではなく、自分の置かれた立場で考え判断するしかないということなのです。

文句を言ったり、他人を非難したりせず、ただ自分が信じることをするしかないと思っています。

それにしても。。。

本当にどこに感染者がいるのでしょう?
今日も東京では2000人を超える新規感染者が報告されていましたが、相変わらず身近で感染の話は聞かれません。。。





ちなみに今日は、フランスの哲学者、作家、政治活動家、そしてフェミニストとして知られるシモーヌ・ド・ボーヴォワールさんの生まれた日です。

私はフェミニストではありませんが、若かりし頃にこの方の代表的な著書は一通り読みました。

「なるほど〜」と唸るような記述は数あれど、その思想に夢中になるほどには響きませんでした。
その証拠に、今ではそんな本の内容すらすっぽりと抜け落ち、ただ「ボーヴォワール夫人」という名前だけが残されているだけです。

そもそもフェミニズム!と声高に叫ばなければいけないような環境に身を置いたことがないせいかもしれません。
私の生まれた家では、性別関係なく強いものが権利を得るという家庭だったので、不平等を感じることなく成長しました。

加えて「女だから」というよりも、「女だからこそ」と小賢しく生きてきたせいもあるでしょう。

窮屈な思いを感じることなく、常に解放された状態でいれば、あえて自身の権利を主張する必要もありません。

我が家の子供達は2人とも女子ですが、解放されきっているせいか、「フェミ?興味なし」といった様子です。

しかし、ボーヴォワール夫人は数々の名言も残していて、思わず唸ってしまうような素晴らしい思想、面白い言葉をみることもできるので、女性のみならず、一度は読んでみるのもいいのではないでしょうか。。。

夢中になればなるほど太る趣味。それでも趣味は生きる糧となる「喜」

2021年1月8日(金)

今日も朝からよいお天気の東京でしたが、まだ引きこもり生活は続いています。

腰痛もかなりよくなってきたようで、今朝は自分でゴミ出しにもいけました。
が、やはり痛みはあるので、もう少し大人しくしていようかなとステイホーム。
どうせ緊急事態宣言も出たので、しばし静養していることにしました。

今年はガレットデロワも食べられない。。。そう思うとガックリきてしまったので、朝からネットで百貨店サイトやお菓子屋さんサイト、お取り寄せサイトを巡っていました。

バレンタインデー前とあり、目新しいお菓子が盛り沢山で、ポチポチと指が気持ちいいくらいに走ります(笑)

しかしバレンタインデー向けのお菓子は2月到着がほとんどなので、当面のおやつを確保するために、さらにポチポチしなければならず、こんなにお菓子ばかり買っていていいもの?と、最近増えたお腹の贅肉を見下ろしながら、自分の行いに疑問を覚えたりもするのです。





ほとんど動かなかった割には、食欲は旺盛で、3度の食事以外にもお菓子やアイスを好きに食べているのです。
これではさすがに太ります。。。

ウォーキングしていた頃は、暇に任せてかなり長距離、長時間歩いていたので、体重が増えることもありませんでしたが、まったく動かないとなれば、5キロくらい太るのは簡単です。

体型の変化を知るバロメーターであった服も、外に出ないことでゆるっとした部屋着ばかりなので、太った!と気づいた時には大変なことになっているというパターン。。。

まったくとんでもない趣味を持ってしまったものだと思います。

これが、ヨガや筋トレ、ランニングが趣味であったらダイエットに関する悩みなどなかったことでしょう。





若い頃からこれといった趣味はありませんでした。
読書や映画鑑賞といった趣味の定番と言えることに関しても、日々当たり前のようにしていたことで、あえて「趣味です」というほどのことだとは思っていませんでした。

一人であちこち国内外へ旅をしていましたが、ただ行きたいから行っていただけで、これもまた「趣味です」というほどのこととは思っていませんでした。

多分、今から思えば、どれも「趣味」と言っていいくらいにはしていたことなのでしょうが。。。

今は読書量もめっきり減り、映画もごくたまにどうしても観たいものがあった時に足を運ぶ程度。
旅にしても子供が生まれてからは、気まぐれにふらりと行くこともできないので、家族で旅行に出かけるくらいです。

そんな感じだったので、常に自分には「趣味がない」と言い続けてきましたが、最近では「お菓子を食べること」そして「ブログ」が趣味だと思えるようになりました。

これだけ毎日、飽きもせず何年も続けているのだから、これは「趣味」と言ってもいいのではないかと思うようになったのです。





どんなことでも夢中になれること(もの)があるのは幸せなことです。
それは生きる活力になり、心を励ましてくれます。

嫌なことがあっても、美味しいお菓子を食べたり、愚痴愚痴とブログに気持ちを綴っているだけで、気持ちが落ち着いてきて、「まぁ、これも人生だわ」と思えるようになります。

夫や子供達を見ていても、その趣味が生きる上での一つの大きな光となっているのがわかります。

つらいことがあっても、この(趣味)ために頑張れる!というのはよく聞く言葉です。

趣味といっても、それが「生きがい」となるほど思いの強いものから、何となく好きというライトな趣味まで色々かと思いますが、いずれにしても「これが好き!」というものがあるのは嬉しいものです。

たとえそれが、どれだけ太るような趣味であるとしても(笑)

ネットや本で美味しそうなお菓子の写真を見て、買いに行く予定を立てたり、デパ地下やお菓子屋さんに足を運び、並んだ色とりどりのお菓子を「どれにしょう⁉︎」と悩みながら選ぶのも楽しいもの。

今だって、腰痛で動けない退屈な毎日でも、そんなお菓子を探したり、ネットショッピングしたりすることで楽しい気持ちになります。

やはり、この趣味は捨てられません。
どんなに太ろうが、お菓子はやめられません。。。
と言いますか、運動すればいいのです。
腰痛がもう少しよくなったら、運動を開始しましょう。
これもすべては「趣味を守るため」。そう思えば、少しくらい面倒でも耐えられそうです。

とりあえずは、1ヶ月の緊急事態宣言中に、いまある余分な贅肉を一掃し、体型を元に戻すことを目標としましょう!





ちなみに今日は、イギリスのミュージシャン、デヴィッド・ボウイさんの生まれた日です。

ミュージシャンのみならず、俳優としても活躍し、日本でも大変な人気を誇ったボウイですが、10代の頃は私も大好きでした。

ボウイといえば思い出すのは、今から約30年ほど前のことです。ロンドンで暮らしていた私はある田舎町の小さなホールにボウイが来る!という噂を小耳に挟みました。周りの多くの人は「ガセネタでしょ」と言っていた中、よくわからないまま足を運んだのですが、そこに本物のボウイが現れたのでした。

世界的に有名なミュージシャンがこんなところで⁉︎ そう思うような、古びた狭いホールでした。

それまでミュージックビデオや写真でしか観たことのなかった憧れのボウイが目の前にいます。
あのオッドアイがはっきりと見え、手を伸ばせば触れられるのではないかという距離でした。

私はなんという幸運な人間なのだろう。こんな幸せが訪れるとは⁉︎

たいした目的もなく日本を出てきたけれど、イギリスへ来たのはボウイに会うためだったのだわ!

いま思えばかなり大袈裟ですが、当時はそんな激しい勘違いをするほどに興奮したものでした。

ボウイが亡くなってもう5年くらい経つでしょうか。その時はとても悲しかったものです。

今でもデヴィッド・ボウイという名を聞くと、あの古びたホールを思い出します。

ただ、どこの街の何という名のホールであったかは、まったく思い出せません。イギリスに渡ったばかりで、英語もほとんど話せず、地理もよくわかっていない中、夢中で駆けつけたことだけは覚えていますが。

若さの持つ情熱とはすごいものです。そして、その情熱こそが夢を叶えることに必要な大切なものだと知った、一つの大きな出来事でした。

緊急事態宣言発出の東京でも、周りに誰も感染者がいない。。。それでも自粛しなければいけない「哀」

2021年1月7日(木)

本日で引きこもり生活は8日目となりました。
家から出られない原因となっている腰痛の方は、少し良くなったか?という程度で、まだ元気に外を歩けるまでは回復していません。

ゆっくりと家事をやり、無理なところは娘にお手伝いしてもらいながら、なんとか普通には生活できています。

今朝はNetflixで『パラサイト』を観ました。韓国の半地下に住む貧しい一家が、詐欺まがいな方法でお金持ちの家に入り込むといったストーリーですが、なんとも救いようのないエンディングで、ちょっと暗くなってしまいました。
退屈とか面白くないというのではありません。
ただ、普段思い切りハッピーエンドなストーリーばかりを選んで観ているせいか、この映画のテーマもさることながら、まったく救いの見えないシリアスな現実が重過ぎたのです。。。

その後に気分転換にと少し昼寝をしたのですが、起きてみれば「本日の新型コロナ感染者数、2447人」というニュースが飛び込んできました。

昨日から一気に増えましたね。。。

しかし、こんな数字を見ても、正直言ってピンときません。
なぜなら、周りからはまったくと言っていいほど「感染した」という話が聞かれないからです。





東京の真ん中で暮らしていて、普通にランチをしたり、デパ地下へお買い物に行ったりと、私も含めみんな普通に生活しています。

もちろん、マスクをすること、手洗いなど基本的なことは怠りませんし、ランチの際もなるべくテーブル間のスペースがとってあるようなお店、もしくは個室のあるところなど、場所は選んでいます。
しかしそれらは最低限の注意であって、それをしたからと言って感染しないという保証はどこにもありません。

もしかしたら、感染していながらも無症状なだけという可能性もまったく否定はできません。しかし、我が家の夫も含め、中には職場で実施されたPCR検査を受けた人もいますがみんな陰性でした。
該当するような症状を認める人もいません。

とにかく、家族からも友人からも知人からも、身の回りで「感染した人がいる」という声はまったく聞こえてこないのです。

毎日のように発表される感染者数の数字を見るたび、どこに感染者がいるのかしら?と不思議になるほどです。





今日は菅総理から緊急事態宣言が発出されました。これから自粛生活となりますが、昨年の時のようにはいかないのではないかと思います。

これほど感染者が急増している中でも、それが実感できない上、約一年近くに渡るコロナ禍で慣れも出てきています。

これまで普通にお買い物へ行き、友人と食事をしたり、多少の不便は感じつつも自粛によって生活を脅かされるということは感じませんでした。

ロックダウン中の海外にいる親類などと話すと、その緊迫感の違いをひしひしと感じます。

まさにあちらは、外に出られない!出たら感染して大変な思いをする!
そんな切迫した空気があります。

ニュースなどでは大勢がマスクなしで集い、感染を拡大している様子が度々報道されていますが、それがすべてではありません。

私達以上に新型コロナを恐れ、完全なるロックダウンに従っている人も多くいるのです。
それに比べると、まだまだ私達はロックダウンされているわけではありません。

飲食店などは時短営業で夜8時までとされていますが、言い換えれば夜8時までなら飲食店で食事を楽しめる自由も残されています。

学校や保育園の休校もなし。コンサートやイベントなども人数制限や時短はあるものの実施は可能です。

つまり、最初の緊急事態宣言時よりは、緩くなっているのです。

そんな緊急事態宣言です。自粛するかしないかは、人それぞれの判断になるでしょう。





私個人としては自粛するつもりでいます。もちろん生活に必要な買い物や病院などのためには外出しますが、それ以外のショッピングやお友達とのランチなどはしないつもりです。

出たくても、どうせ腰痛で当分は無理でしょうが。。。(笑)

感染したら、たとえ軽症であっても2週間は隔離となります。病院やホテルなどに病人として缶詰になるのは絶対に嫌なのです。
過去に病気で2週間以上入院したことがありますが、本当にその不自由さが苦痛で、手術の痛みをおしてまで予定よりも早く退院させてもらったほどです。それほど入院するのが嫌なのです。

あんな思いをするくらいなら、勝手知ったる自分の家に缶詰になるくらい、なんでもありません。

とはいえ、今の状況では入院などできる余裕が残されているかわかりませんが。。。

いずれにしても、感染さえしなければ隔離されることもないのですから、できる限り感染しない努力はしたいということです。

しかし、夫は普通通りに仕事ですし、娘も今週末にはセンター、そして3月には希望校の受験を控えています。
つまり、家族はこれまで通り外出することになるので、私も感染のリスクがあるということ。。。

こればかりは仕方がないので、わずかなリスクに対しては、少しでも免疫力を上げておくなど、体調管理に頼るのみです。

明日から1ヶ月続く緊急事態宣言による自粛ですが、感染拡大に少しでも効果があることを願うのみです。





ちなみに今日は、アメリカの映画俳優であるニコラス・ケイジさんの生まれた日です。

決してイケメンではありませんが(私が思うに)、どんな役でもこなす演技派であり、私生活でもスキャンダラスな話題を振りまく俳優さんとしても有名です。

そんなニコラスの破天荒ぶりは『ワイルド・アット・ハート』並にワイルドです。
中でもその浪費家ぶりはよく語られることで、フェラーリは全モデル所有。他にもコミックからお城までどうやらコレクション好きのようで、散財しまくった挙句、あれだけのギャラを稼ぎながらも家が競売にかけられるなど負債もかなりになると言われています。
でも、ニコラスなら真面目にやっていれば、すぐ返済できそうですけどね。。。

スキャンダルもハリウッド級にワイルドなニコラス、実は日本語を学んだこともあるらしく、昨今では日系パートナーとの関係も話題になっていました。

まさに破天荒を絵に描いたようなハリウッド俳優といえますが、叔父はあの著名な映画監督、フランシス・フォード・コッポラさんです。
著名なおじさんは、甥っ子のことをどう思ってるのでしょうかね。。。

一週間の引きこもり生活で知った引きこもりの心境と、人は一人では生きられないという現実の「哀」

2021年1月6日(水)

今日もまだ動けず。。。

変わらずヨタヨタしながら、最低限の家事だけしつつ、あとはソファーに根っこが生えたような状態で過ごしました。

近くのコンビニくらいは行けるかな?と思いましたが、着替えをするのもつらいので、今日もまだ一歩も家から出られませんでした。

今年は仕事始めも早かったせいか、世の中お正月気分は抜けて、通常モードに戻っています。

そんな中、何もできずに引きこもっていると、いくら仕事をしていない身の上とはいえ、多少の不都合が生じ、自分一人では生活できない状態になってきます。

今はとりあえず食べることには困りませんが、それも家族が代わりにやってくれるからで、自分一人であったら、どうなっていたのだろうと思いました。

たくさんあると思っている食料品もやがては尽きます。手元にある現金も減り、そろそろ銀行にも行かないとなど、もしも一人であったら困ることがたくさん出てきそうです。

今はネットでお買い物をすれば、現金で決済する必要もありませんし、玄関先までなんでも品物を届けてもらえる時代ですが、玄関まで取りに行くことすらできない状態では、どうにもなりません。

普段は「ひとりになりたい」などと、お一人様礼賛!とばかりに語っていましたが、やはり人間一人で生きていくには、相当の覚悟が必要であると改めて感じました。

社会と断絶された世界で、たった一人で生きていくことは、ほとんど不可能ではないかとすら思います。

自立だなんだのと言っても、それは自分が元気だから言えることで、万が一の時は結局誰かに頼らずを得ないのです。

頼れる存在である家族がいない人などだって、ヘルパーさんなどにお願いして、自分のできないことをしてもらうという点では、誰かに手助けをしてもらっていることになります。





誰かに頼るのは、たとえそれが家族だとしても心苦しいものです。遠慮しているというのではなく、自分自身が何もできないことが苦しいのです。

自分のことは自分で面倒を見るべきと、自立!自立!と言ってきた自分が、誰かの世話にならないと普通の暮らしすらままならない状態がつらいのです。

しかし、そうは言っても、自分でやりたくてもできなのなら仕方がありません。不本意ながら誰かに頼るしかありません。。。

引きこもりというのも、そういう点でとてもつらいものなのだなと思います。

昨今問題となっている引きこもりも、誰かしら助けてくれる人がいるからこそできることなのでしょう。

私の遠い親類にも何十年も引きこもっている女性がいます。私は会ったことがありませんが、もう30年以上になるそうです。

毎日、年老いた親を買い物に行かせ、食事の用意をさせ、自分はただ部屋でお菓子を食べながら好きなことをして過ごしているそうです。

人と接するのが難しいのかと思えば、そうでもないらしく、親類の誰かが訪れた際には、なんだかんだと話をし、説教までしてくれるそうです(笑)
30年間引きこもっている間に、たくさんの本を読んだから、知識は人並み以上だと豪語しているらしく、親戚のおばさん相手に討論して論破することで優越感を得ている、なんて話も聞きました。

私のところにも、そんな論破された親戚のおばさんから、一度相手をして欲しいと頼まれたことがありました。

私は暇なので旅行がてら行ってもいいわよ!と快くお返事をしましたが、「あの人とは会いたくない」とお断りされたと言います。

親類縁者の中ではブラックシープ的存在として悪名高い私なら、きっと引きこもり批判をしてくるだろうとでも思ったのか、敬遠されてしまったようです(笑)
そんなわけで、30年もの間引きこもり生活を続けているその女性に興味を持ちながらも、未だに会ったことはないのです。

そんな女性の話を聞くたびに、先のことを考えて不安にならないのだろうかと思います。
そこに至るまで、なにかしらの理由あってのこととは思います。他人には理解できない心の問題など、一言で非難できるものではありません。





その女性の生活は、昨今問題とされている「8050問題」そのものです。
これは80代の親が50代の引きこもりの子供を抱えているという問題について言われている言葉です。

親類の女性も私と同じような年齢なので、すでに50代です。地方都市で持家、まだ両親ともに現在ですが、これといった資産があるわけでもなく、 80代の両親の年金に頼った暮らしです。

両親は自分亡き後の娘の生活を危惧し、色々な人に相談を持ちかけているようですが、当人から危機感は見えないといいます。

ほとんど働いた経験もなく、常に誰かに支えられて生きてきたせいか、誰かしらが面倒を見てくれると思っている節があると言う人もいます。

まだ結婚も諦めてはいないといいますが、一歩も外に出ず、毎日お菓子を食べてブクブクと太った、何も持たない50代の女性にそんな可能性は限りなく低いでしょう。

ただ思うのは、実は本人も引きこもっていることが辛いと感じているのではないかということです。

私などたった1週間、腰痛で引きこもらざるを得ないだけで、これほど悶々としてしまうのですから、30年間ともなればその苦悩はいくばかりかと思うのです。
自分では何もできないもどかしさ、苛立たしさなど、感じないわけはないはずです。

前述としたように、人はたった一人きりで生きていくのは難しいことです。
この引きこもりの女性も今は両親が健在なので生活はできますが、両親も80代となればいつ介護が必要になるか、また寿命が尽きるかもわかりません。

これまでは、自立しようとしなかったせいであり、どんな結果になろうとも自業自得!などと思っていました。

しかし、もしかしたら出たくでも出られなかったのかもしれない。。。とも思うようになりました。

健康とは身体だけでなく心も含めてのことです。

私はたまたま腰痛という体の不調によって外に出られない状態ですが、心の健康を損なって出られない人も当然いるはずです。

人と接することが辛いという理由で引きこもっているとすれば、こんな人はどうしたらいいのでしょうか。

「人は一人で生きられない」のだとすると、居場所はないも同然です。
それとも、どこかに救いの道はあるのでしょうか。。。





東京ではいよいよ2度目の緊急事態宣言が発出され、明日あたりからまた自粛生活に入ります。

コロナ禍で過ごした約一年の間、メンタルに不調をきたした人が多くいるといいます。
特に若い女性に顕著だと言いますが、人との繋がりが見えないことで、孤独を感じてしまうということなのでしょう。

人は誰しも人と繋がることを求めているのかもしれません。
私のように「ひとりで全然平気!」と言っている人間でさえも、ひとたび不自由になれば心弱くなるのですから。。。

何十年も引きこもりを続けている人も、ひとりで引きこもっているわけではなく、そこには家族がいるこそ何十年もそうしていられるのでしょう。

腰痛で引きこもっている私とは、まったく状況は違いますが、家に引きこもっている、外に出られないという点では同じです。

自分が似たような状況になって、初めてその心中を想像し、これまでとは少し違った目で見られるようになりました。

昭和のバブル期を生きてきた人間は、どこか尊大なところがあり、なんでも頑張りが足りない!自己責任!と威勢のいい厳しい言葉で片付けるようなところがなきにしもあらずですが、自分が弱って初めてそれがおごりであるとわかります。

家の中で動くのすら大変な状態で、自分一人では何もできず、ただソファーに座って日がな一日を過ごしているので、普段は考えないようなことまで考えます。

これはこれで、私のような人間には必要な時間だったのかも知れないと思うのでした。。。





ちなみに今日は、イギリスのコメディアンであるローワン・アトキンソンさんの生まれた日です。

私は昔から日本の「お笑い」というのがあまり好きではありません。というよりも、笑えないのです。。。

昨今ではTVをつければ、ほとんどの番組にお笑い芸人と呼ばれる人達がでていますが、ちっとも面白いと思えないので、TVもあまり観ません。

しかし、このイギリスのコメディアンだけは笑えます。

日本でも『Mr.ビーン』で一躍有名になったローワン・アトキンソンさんです。

かつてこの『Mr.ビーン』のビデオをたくさん並べて、毎日のように観ては大爆笑していたものです。

言葉は一切なし。ただその動きだけで笑いを誘うというサイレントなショートストーリーですが、なぜかこれがツボにハマり、何度観てもおかしくて、おかしくて(笑)

こんなコメディアン、日本にはいませんよね?