2020年10月15日(木)
今日は朝から曇り空。ちょっと肌寒い一日でした。
昨日のラーメン餃子から完全に回復していなかったので、お買い物など予定していたことは全てキャンセルして、家でのんびりしていました。
一度調子を崩すと、復活するまでに数日かかるので、その間はなるべく動かないようにしています。動かなければそれだけお腹も空かないので、無理やりに断食状態にし、胃腸を休ませようということです。
それほどまでにダメージを受けている妻に対し、夫は容赦ありません。
健康管理は自己責任であると、労うどころか「自業自得」だと言わんばかりです。
朝、仕事へ出かける前にも、当たり前のような顔をして用事を言いつけていきました。
年末年始のホリデーに旅行へ行きたいらしく、その手配をしろというのです。
しかし、「どこ行きたいの?」と尋ねれば、
「寒いところ。。。」
「例えば?」と、もっと具体的に聞こうとしても、
「どこでもいい」。。。
「今夜なにが食べたい?」と聞いて、「なんでもいい」と言われるのが一番困るという主婦の声をよく聞きますが、それと全く同じです。
「なんでもいい」は一番困るのです。
長年ともに暮らしてきた夫といえど、その頭の中がどうなっているかなど、私にはわかりません。
わかったら、それこそ正気を失いそうなので、わかりたくもありませんが。。。
夫の中で、この「なんでもいい」は、「あなたに決定権を与えます」という意味合いもあり、つまりは「この優しき物分かりのいい夫を、見よ!」と意味を同じくします。
こちらの迷惑には思いも及ばぬようなので、「そういうのが一番迷惑」「恩着せがましい!」と具体的に指摘しますが、理解してはもらえません。
これは言語の問題ではありません。私達2人は、共通言語である「英語」も「日本語」も、意志の疎通をするに十分な程度には話すことができます。
なにが問題かと言えば、お互いに求めるものが異なっている点です。
この20年あまり、外国人である夫が少しでも暮らしやすいようにと、煩雑なことは全て肩代わりしてきました。
それが仇となったのか、すっかり日本に慣れた今でも、私がなんでもやることが当たり前だと思っているのです。
なにも言わなくても、私が全てオーガナイズし、自分はそれに乗っかればいいというのが夫の求めることになっています。
一方の私は、自分でできることは自分でせよ!
して欲しいことがあるなら、具体的な指示をしろ!です。
今回の旅行に関しても、夫が「行きたい」と言えば、私がさっさと手配してくれることを求めているのです。
しかし、ラーメン餃子でダメージを受けた私には、そんな気力はありません。
あわよくば、一日中なにもせず、ソファーに寝っ転がって、韓流ドラマを延々と観続けたい。。。そんな思いです。
朝の様子から、旅行の手配をしているかどうか怪しんだのでしょう。昼になると、メールが届きました。
旅行の件は決まった?
とても楽しみにしている。。。
そんな内容です。
つまりは、催促ということですね。
自分が行きたいところでもあれば、「ここがいい!」と決めて、嬉々として手配しますが、いま家族でどこへ行こうかと考えても、あまり思い浮かびません。
一人なら、断然ひなびた温泉宿でひっそりとこもりたいくらいですが、夫が一緒ではそうもいきません。
なんせ、回遊魚のような人間です。温泉でのんびりなどできるわけがないのです。
とくに年末年始などは混み合う時期です。とくに今年はコロナで足止めされた人たちがGO TOキャンペーンなどを使って、いつも以上に多くの人がそこかしこに拡散するはずです。
私は昔から、お正月とお盆は東京にいたいのです。この時期だけは、ゴミゴミとした東京が閑散として、いつもと違った空気が味わえるからです。
しかし、夫は違います。少しでも休みがあるなら、どこかへ行きたいといいます。
ここからして、求めることが違うのです。
夜、仕事から帰宅した夫が、案の定また尋ねてきました。
「旅行、どこにした?旅行会社に行ったの?」
この人の頭の中にはそれしかないのか?
そう思うほど、同じことしか言いません。
もう答えるのも怠く、知らん顔をしていると、私の心中を察した長女がすかさず夫を制します。
「マミーは具合が悪いんだから、そんなに行きたいなら、自分で手配しなよ」
ここで、いつものように親子喧嘩勃発です。
「一日家にいるのだから、それくらいできるだろう?」
「だから病気なの!」
「病気じゃない!いつもの食べ過ぎだ!」
なんだか、側で聞いていて、情けなくなってきました。。。
ラーメン餃子の食べ過ぎで体調を崩したがために、旅行の手配ができない妻。旅行計画が進まず、子供に八つ当たりする夫。。。
決して立派な親ではなかったけれど、ここまで情けない親でもなかったはずです。
こんな親の元にいると、子供は自分で大人になっていきます。
「みんな、家族旅行に行きたくないのか⁉︎」
そう絶叫する夫に、畳み掛けるように、
「ダディーは、人に頼らず自立しろと、いつも言ってきたよね?自分もそうしたら?」
これにピッキーン!ときたのか、夫は決して言ってはならないことを口にしました。
「オレの稼いだお金でここに住んで、好きなものを食べて、学校まで行かせてもらってるのは誰だ!」
あーあ、それを言っちゃおしまいだわ。。。
そう思いながらも、こうなるとなにを言っても無駄なので知らん顔の私。
しかし、そこに参戦してきた予備校帰りの次女。
「子供を養育するのは、親の義務だ!」
「だから、養ってるだろ⁉︎」
ここまでくると、もう収拾はつきません。。。
長女は日本語で話しますが、次女は英語で話すので、よりダイレクトに響くのか、夫の疳の虫に触るようで、さらにエキサイトするのです。
騒音に耐えきれなくなった私は、そっと耳にイヤフォンを差し込みます。
このような醜い争いに心が汚されぬよう、美しいヨーヨーマのチェロを聴き、心を鎮めます。。。
口論が少しでも耳に紛れ込むことがないように、中耳炎になるかと思うほどの大音量で音楽を聴き続けるのです。
最後には、2人の攻撃にぐうの音も出ずに、夫はそっと家を出ていきました。
行き先は近所のコンビニであることは、誰もがわかっています。いつものパターンなので。
そして大量のアイスクリームを買ってきて、それを娘たちにチラつかせるのです。
小さな子供じゃあるまいし。。。
と思うなかれ、ここが我が家のおかしなところ。。。
「わー!私も食べるぅー!」
そう、嬉々としてアイスクリームに飛びつく子供達。。。
私がイヤフォンを外した時には、3人でアイスクリームを食べ、さっきまでの口論はなかったことにでもなったのか、忘れ去られたように話題からは外れていたのでした。。。
しかし、ここで気を抜いてはいけません。
これは終わりではないのです。
きっと明日になれば、また「旅行どこにした?」と平気な顔で聞いてくるはずです。
これがいつものパターン。20年以上も繰り返されてきたことなのですから。。。
これがあと何十年続いていくかと想像すると、怒りよりも哀しみの方が強くなるのでした。。。
ちなみに今日は、ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの生まれた日です。
多くの若者にとって哲学はまるで麻疹のようなもので、あえて難解なものに挑んでいく時期というのがあります。
私も十代の頃、そんな麻疹にかかりニーチェなどの本を読んだものです。
しかし、哲学のなんたるかなど、これっぽちもわからぬまま、ただ読んだことに満足していたのだろうと思います。
今では、頭の中に哲学の「て」の字も残ってはいません。。。
大人になってから、改めて触れてみると、これは逆に理解できなくて幸いであったと思うほど、物事を拗らせていると思ったのは、私だけでしょうか?
小難しい本から生きる意味など探す必要はありません。
物事は思うほど難しいものではなく、その本質はいつだってとてもシンプルなものだからです。
それでも、ニーチェの残した数々の格言や名言は、時に心の支えとなるような素晴らしいものがあるのも事実です。
さすが歴史に名を残す偉大な哲学者です。
しかし、麻疹は一度かかれば免疫がつきます。
すでに免疫のある私は、もうニーチェに心動がされることはありません。。。