365の喜怒哀楽 〜 50代主婦の暮らしブログ

喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、日々の出来事を綴る日記。

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諦めないこと、諦めること、人生にはどちらも必要であると分かっていながら反く「哀」

2020年11月7日(土)

今朝も肌寒い一日でした。
昨日も朝から一日中外出していたので、今日はゆっくりしようと思っていたのですが、冷蔵庫を開けた時、大切なものが残りわずかとなっていたのを発見してしまい、大慌てでお買い物へ行きました。

昨日はまだ未開封の袋があったはずなのに。。。

また夫が勝手に使ったのでしょう。

私の「あげ玉」を!

そうです。私にとって「あげ玉」はなくてはならないものなのです。
常に未開封のものが常備されていないと、気になって仕方がありません。

とにかく、ご飯、おにぎり、蕎麦、うどん、味噌汁、豆腐、納豆、炒飯、サラダ etc
なんでもかんでもあげ玉をインします。

つまり、大好きなのです。。。

「油の旨味」の虜になった者にとって、あげ玉はまさに「食べられる宝玉」と言っていいほどのもの。

それがなければ食欲も減退する。。。というほどに、不可欠なものです。

しかし、あげ玉ならなんでもいいというわけではありません。
味、形状、歯応え、見栄え、買いやすさ、そして価格と、厳しいマイ基準を満たしたものでなければならないのです。

過去、何年もあげ玉ジプシーをしてきましたが、かれこれ一年ほど前に「これ!」という理想のあげ玉と出会いました。

それは灯台下暗しと言えるくらい、近くのスーパーにひっそりと、しかも大量にあったのでした。

以来、私は週に何度もその店に通い、以前よりもさらにあげ玉に依存するようになりました。

これに影響されてか、あげ玉マジックにハマったのか、最近では夫が勝手に私のあげ玉を使っているようなのです。

私はよく、あげ玉、塩昆布、刻んだ大葉を使った醤油味のおにぎりを作って食べているのですが、いまのあげ玉を使うようになってから、夫の食いつきが尋常ではなくなりました。

大きなおにぎり一気に5個食べてしまうほど、好きなようです。

昨日の夜もおにぎりを作っておいてくれと言われたので用意しておいたのですが、私の寝た後でしっかりあげ玉を増量してから食べた痕跡が見られました。





そんなわけで、今日はわざわざあげ玉を買うためだけに出かけたのですが、そのあげ玉を扱うスーパーはある商業施設の中にあるため、揚げ玉ついでについつい洋菓子やら和菓子やらをお持ち帰りしてしまうのが難点です。

今がいま、必要なわけでもないので、何かのついでにでも買いに行けば、余計な散財もしなくて済んだものの。。。

いつもそう思うのですが、ダメなのです。常備品に限らず、どうしても欲しいと思うと、たとえ一瞬でも諦めるということができません。
非常に困った性格だなと思いつつも、どんな些細なことにも、ちっぽけなものに対しても、それを必死で得ようとする自分が嫌いではありません。

性格的なものもありますが、欲しいものが手に入るまであがき続けることが、ある意味で「諦めない」というクセに拍車をかけている気がします。

「諦めない」、また反対の「諦める」という行為はクセになります。
思考のパターンとして、物事の岐路に立ったとき、いつもそうするように、意思は自然と慣れた方へと流れていくものなので。

ただ、「諦める」ことも決してマイナスであるわけではありません。
ダメなら仕方ないという見切りも時に大切です。





私は株式投資のようなことは一切してはいけないと、亡き父から言われてきました。それはこの性格上、損切りができないからです。
私のように「いつか上がる可能性はある」などと、諦めずにかじりついているうち、どんどん損失が膨らみ、やがて破産という未来が見えるからです。
どんなに学んでも、性格がそれを邪魔するであろうことを父はわかっていたのです。

海外にいた頃ですが、カジノに行ったときもそうです。大勝ちしたのにも関わらず、私は無一文になるまでゲームを続けます。

なぜならば、
目指すところはアメリカンドリーム。
億万長者になるまで諦めない!

そして、いつもすっからかんになるのです(笑)

これまで投資話などは色々ありましたが、私は父の言われた通り、何一つとして手を出していません。
おかげで今も破産せずにすんでいます(笑)

諦めない癖は別のところで発揮すればいいと思っています。
例えば、あげ玉探しとか。。。(笑)


諦めることも、諦めないことも、人生においてはどちらも必要なことです。
分かっていながら、極端な行動をとってしまうため、失敗多き人生を送ってきたとも言えますが、いろいろな可能性を試す前に諦めてしまうのはもったいないことだと私は思ってしまうのです。

自身の破滅を招くほどの頑固さは命取りですが、なんでも簡単に諦めてしまうのも味気ない人生です。

つまりは、ほどほどにということでしょうか。。。

わかっているのに諦めることをよしとしない自分が哀しくもあります。

あげ玉も油の塊のようなものなので、その使用はほどほどにしなければいけません。
とりわけ50代にもなれば、さまざまな成人病が虎視眈々とこの身を狙っているのです。

そこもまたあげ玉ラブァーにとっては哀しみの一つとなるのでした。。。





ちなみに今日は、フランスの作家、アルベール・カミュさんの生まれた日です。

「今日、ママンが死んだ」という、なんとも悲壮感あふれる書き出しで始まる『異邦人』の著者として知られるカミュですが、私はあまりこの方のストーリーは好みでありませんでした。

しかし、2冊だけとても大切にしている文庫本があります。

『太陽の讃歌ーカミュの手帖1』
『反抗の倫理ーカミュの手帖2』

そんなタイトルの散文集です。

これは「手帖」というように、カミュが作品の素となる散文を書き綴ったノートのようなもので、『異邦人』をはじめ、『ペスト』などの代表作に見られる断章が突然出てきたりする、非常に読み応えのある散文集です。

現在は絶版になっていますが、ちょっとamazonで見てみたところ、中古などでは当時の10倍くらいの値段で売られていたりします。

かれこれ40年も読み続けてきたものですが、10代の頃に読んだ時の感動と、50代となったいまでは、当然感じ方も異なります。

それでも、なお本を開くたびに、宝石のように散りばめられたカミュの感性に触れることができる、私にとっては貴重な本なのです。

そういえば、コロナ禍でカミュの『ペスト』がにわかに話題になっていたといいます。
奇しくも今年はカミュ没60周年に当たる年なのでした。。。