2021年2月23日(火)
ようやく週が明けたと思ったら、今日はまた祭日です。。。
お天気こそよかったものの、特に用事もなかったので、家で過ごしました。
午前中に掃除、洗濯などの家事を終えてしまえば、あとは家族の食事を用意する以外は、自由に過ごせます。
(時々、というか、よく邪魔は入りますが)
ところが、この食事の支度というのが曲者です。
最近は家族各々それぞれのペースで過ごすので、起床時間もまちまち。必然的に食事の時間も変わります。
まず、次女は受験目前のため、お休みの日も朝から夜までガッツリ予備校です。
7時に起きて食事、夜は9時、遅い時は10時を過ぎます。
大学がすでに春休みに入っている長女は、平日もお休みの日も一緒。
バイトや現在手がけているプロジェクト、お稽古事の予定に合わせて寝たり起きたり食べたりなので、時間は毎日コロコロと変わります。
しかし、長女の場合は時間が定まらないことの私への負担を考えて、「食事は自分でやるから用意しなくていいからね」と言ってくれ、タイミングが合った時だけ「私の分もお願い」と作る前に声をかけてくれるので問題ありません。
なによりも面倒なのが夫です。
夫の場合、起床時間や就寝時間はいつも同じようなもので、生活サイクル自体は平日と休日の違いこそあれ、それほど変化はありません。
それならば、何が面倒なのか?
それは食事の内容と時間がコロコロ変わるせいです。
エクセサイズオタクの夫は、自分が歳をとったことを意識し始めたのか、よりマニアックにその道をひた走ろうとしています。
エクセサイズオタクから、今度は筋肉オタクにでもなったのか?というくらいに、身体を鍛え始めたのです。
「筋トレブーム」の到来。。。
一年前は、筋肉よりも「贅肉減らしブーム」だったのですが。。。
つまり、目的によって食事の内容も仕方も、そして時間までもが変わるというところが、私にとってはとっても面倒くさいことなのです。
「炭水化物はとらない」そう言っていたかと思えば、一週間後には「炭水化物もとらねば!」
「食事は基本!しっかりとるぞ」
そう言っていたはずなのに、食事を用意したらしたで、
「今日はプロテインだけで済ませる日だ!」
「朝ごはんを欠かしてはいけない」
そう昨日は言っていたのに、今朝は
「胃腸を休ませるため、半日断食するぞ」
もう、意味がわかりません。。。
「それなら、一週間の予定でも書いておいてよ!たくさん作っちゃったじゃないのさ!」
そんなことを言おうものなら、「その都度作る前に聞けばいいだけじゃないか!」
そう逆ギレです。
これには子供達から激しいブーイングが起こりました。
「なんで、食べるか食べないか、内容から時間までダディーの言う通りにしなきゃダメなの?超自己中オヤジ!」
そんな抗議の声を受け、プイッと筋トレに出かけて行ってしまう。。。
そんな繰り返しです。
私はこの外国人の自分至上主義にもすっかり慣れ、「完全無視」という技で撃沈させることが常となっていますが、子供達にとってはものすごくイライラするようなのです。
今日も晩御飯の支度をする前に、一人で何個もの茹で卵を食べていたのを横目で見ていたので、夫の分は作りませんでした。
案の定、作り終わってテーブルに並べたところで、
「あっ、晩御飯はいらないから」
そう言う夫。
それに対して、私は何も言わずに子供達と3人で食卓を囲んだのでした。最初から夫の分は作ってないし。
途中、匂いにでも釣られたのか、
「少し残りますか?」
そう言って、テーブルの料理を凝視。
自分は茹で卵でお腹を満たしてしまった後、家族が楽しそうに食卓を囲みお肉をモリモリ食べている。。。
元々肉好きなので。たまらなくなったのでしょう。
私と子供達が食べた残りをほんの少しキッチンに(わざと)放置していたら、立ったまま食べていました(笑)
自分勝手なことをしていると、このようなことになるのです。
何気に私の気分を害していることを察したのか、「パソコンの調子はどうですか?」と、
暗に「プレゼントあげたよね?」と、アピールしてきたり、やることがまるで子供で、子供達も呆れ顔。
本当に面倒です。。。
夫のマイブームに合わせて、それを予測して食事の支度をするなどということは無理です。
というか、する気もありません。
これだからお休みの日は疲れます。
考えようによっては、夫が好き勝手するのを逆手に取って、「金輪際、あなたの食事は作りません」宣言してもいいのですが、残念ながらそこまで冷酷にもなれません。
夫が一生懸命に働いてくれるからこそ、子供達は自分の好きな進路を選ぶことができ、私も安穏と暮らせるのです。
自己中は容認できませんが、適当なところで譲歩することも必要かなと思っています。
他人同士が一つ屋根の下で暮らしていれば、色々あるのは当然です。
足並みなど揃わなくて当たり前!
そう思わなければ、結婚生活などやっていられないというわけです。
ちなみに今日は、天皇誕生日。今上天皇である徳仁様のお生まれになった日です。
昔々、まだ陛下が「浩宮様」と呼ばれていた頃、千代田区内の某店でご学友とご一緒に過ごされていた陛下をお見かけしたことがあります。
多分、お忍びだったのでしょうが、そばに寄ることなどできるはずもなく、少し離れたところから穴が開くほど、ジィーッと見てしまったのを思い出します。
あの時の高揚感といったら、それまで経験したことのない種類のもので、いまだにはっきりと思い出すことができます。。。
東京の真ん中あたりで暮らしていると、芸能人をはじめ色々な著名人と遭遇することも珍しくありません。
しかし、これが皇族となると別です。
本当に運がよくなければお顔を拝見することなどできないのです。
日本の皇室に限らず、イギリスでもロイヤスファミリーの方々を拝見する機会がありましたが、やはり同じような感動を覚えたものです。
あの胸が高なるような感動は、幸せな気持ちをもたらしてくれる特別なものです。希望とでもいうのでしょうか、未来に明るい光が差し込むようなヴィジョンすら浮かんできます。
そんな時、思うのです。これこそ民衆が求める皇族という存在なのではないかと。。。
災害があった地域などへ慰問へ訪れる皇族の姿をニュースなどで見ると、迎える人達は不幸の中であっても、そこに希望の光を見つけたようにキラキラとした目をしています。
慈しみのオーラを纏ったような、稀有の存在感は、選ばれし者にのみ備わるものなのかも知れない。。。
天皇陛下を見ていると、そんなことを思うのでした。