365の喜怒哀楽 〜 50代主婦の暮らしブログ

喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、日々の出来事を綴る日記。

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父の日に、亡き父を思う。悲しみは癒えたけれど、その不在をいまだ寂しく思う「哀」

2021年6月20日(日)

今日は日曜日。お天気も悪くなかったので、またお散歩がてらウォーキングに行きました。
昨日、表参道の混雑にゆっくりお茶すら飲めなかったので、今日は宣言通り閑散としたオフィス街をぶらぶら。
霞ヶ関あたりに辿りついた時、先にどこかへ出かけた夫から「どこにいる?」とLINEが入りました。
「父の日」なので無視をするという意地悪はせず、素直にその場所を告げると、案の定合流要請がきました。

「父の日」に免じて、お付き合いしましたよ。。。
日比谷で落ち合い、久しぶりに日比谷公園をぶらぶらと散歩。そして気づくと銀座まで来ていました。

銀座も大変な人出でしたが、ひっそりとした裏通りの喫茶店は静かだったので、ゆっくり休憩できました。
しかし、せっかく人混みを避けて歩いてきたのに、結局は今日も「どうせ銀座まできたのだから」「荷物持ちもいることだし」と、混んだデパ地下へ乱入。
ふらふらとお買い物をしているうちに、無事一万歩越えを記録したので、帰りは電車で帰りました。





今日は父の日ということで、夫ではなく、私の父のことを思い出していました。

ウォーキングの途中、あるホテルの前を通りかかったのですが、昔々そこのティールームで父とよくお茶を飲んだり、ケーキを食べたりしたことを思い出しました。

幼い頃から大のお父さん子。どこへ行くのも父と一緒でした。それは私が成人してからも変わらず、食事に行ったり、買い物をしたり、とにかく多くの思い出があります。

破天荒、ワンマン、自己中、関白、傍若無人など、家族どころか、親類縁者一同から父に向けられるのは、そんな言葉ばかりでしたが、私にとってはとても優しく頼りになる人でした。

サラリーマンには向いていないと、若い頃から起業していた父は、60代で病気をするまでは、とにかく興味を持ったことは必ずビジネスにするという行動力を持っていました。

その激しすぎる性格ゆえ、親類縁者からは一線を引かれていた父ですが、いつも周りにはたくさんの友人が集ってきていました。

「とにかくいい人脈を作りなさい。自分よりも上にいる人間と付き合いなさい」

それは父に言われてきたことです。

自分よりも優れた人を羨み、妬むのではなく、自分もそこへ行き、そうした人との縁を大切にしなさい。

その言葉通り、父は友人たちをとても大切にしていました。

情にも深い人で、友人の保証人などには何度もなっています。そのせいで肩代わりしたこと数知れず(笑)

それでも、そんな友人達とは生涯いい付き合いを続けていました。





しかし、私にはこっそりと言っていました。

「どんな親しい間柄でも、人には借りを作らないこと。作れば頼み事を断れなくなる」

つまり、誰かに保証人をお願いしてはいけない。次に自分が頼まれた時に断れないから!ということだそう(笑)

友人だけでなく、親類もよく我が家に来ていました。
普段は父のことを悪く言ってばかりいる親類が何か困りごとがあると、父の元を訪ねてくるのです。
そんな時も、父は必ず救いの手を差し伸べていました。

そんな親類は一人や二人ではありませんでした。近い親戚から遠い親戚までもが、困った時(ほとんどがお金の無心)はいつも父を訪ねてきて、その時だけ神妙な顔でお願いにくるのです。

私はそれが許せず、何度も父に無視をすればいいと言いましたが、父はいつも、

「困ってるんだから、仕方ないだろう?いつ自分が頭を下げる側になるかわからない。それなら助けられる時は助けてあげるべきだ」

そう言って笑っているだけでした。

ついぞ助けてもらうことはなく、それどころか借りたお金を返す人もいませんでした。
それでも、「貸した金はあげたと思えばいい」と、まったく執着しない様子で、子供だった私はとても歯痒い思いをしたものです。





お金に関しても、とても気風の良い人で、「宵越しの金は持たない」と、稼いだお金は好きなことに遠慮なく散財(笑)

そんな性格の父だったおかげで、私は何不自由なく、贅沢をさせてもらいながら成長しました。

厳しい面もありましたが、あれをしろ、これをしろと言われたことはありません。

自分のことは自分で決めればいい。

いつもそう言って、自由にさせてくれていましたが、なにか困ったことがあった時は、必ず助けにきてくれたものです。

父が亡くなったとき、

「ああ、これから私は一人で生きていかなくちゃいけないのだな」

そう、心細く思ったものです。それほど父を頼りに生きてきたのです。

当時、すでに結婚し子供もいましたが、夫は外国人であり、日本の中では私の方が大黒柱のようなものでした。子供達も幼く、私が守らなければいけない年齢でした。

父がいた時は、何かあれば父に相談して解決してもらってきましたが、そんな父もいなくなり、この先どうなるのか。。。と、ものすごく不安な気持ちになったのを覚えています。

自分も歳を重ね、大人になってみれば、父が完璧な人間ではなく、当然弱さや醜さといった面もある普通の人間であったとわかります。

それでも、どんなことにも臆することなく進んでいく度胸や行動力、周りの人間を大切にする情の深さ、家族を守る意志の強さ、ユーモアを忘れないポジティブさなど、学ぶべきところは沢山ありました。

そんな父の背中を見て、さまざまな人生訓を得て、今の自分がいるのだと思っています。





ついでに言えば、趣味のお菓子もその一つ。幼い頃から和菓子、洋菓子問わず、さまざまな美味しいお菓子を買ってきてくれ、それがどんな店のどんな店主によって作られたか、贈り物にするならどんな人に向いているか、そんなことを自身の思い出話を交えて聞かされてきたことが、原点になっているのだと思います。

私の父は、私が30代の頃に亡くなっています。大好きな父を失った悲しみはとうに癒えました。しかし寂しさというものは、いつまで経っても消えません。

今日は偶然にも、父との思い出深いホテルのティールームの前を通りました。そして、いつも一緒に食事をしたり、お買い物をしていた銀座にもいくつもりはなかったのに、行ってしまいました(笑)

もしかしたら「父の日」だからこそのお導きだったのかも。。。
などと、思ったのでした。

我が家の夫はといえば、海外にいる娘からプレゼントが届き、大騒ぎでした。

「oh my daughter …」

と、感動と寂しさに、大袈裟とも思えるくらい感傷的になる夫。。。

亡き父を思いしんみりする私と、遠く離れた娘を思いシュンとする夫、どちらもどちらの面倒くさい夫婦です。。。





ちなみに今日は、オーストラリアの女優である、ニコール・キッドマンさんの生まれた日です。

トム・クルーズさんの奥様としても知られているお方ですが、私が初めて彼女を見たのは、海外で放送された『Bangkok Hilton(バンコック・ヒルトン)』というテレビ映画でした。
ロンドンのフラットで、この番組を夢中になって観たのを思い出します。

そのストーリーの恐ろしさのみならず、若干22歳のニコールがあまりも美しく、初めての海外暮らしもあり、ものすごいカルチャーショックを受けたものです。

今では立派な大御所女優となったニコールですが、私は今では「ニコール・キッドマン」という名を耳に、目にすると、あの頃の『バンコック・ヒルトン』を思い出すのでした。。。