2020年10月19日(月)
今日は月曜日。。。週の始まりですがお天気のせいか頭が重く、動くのが億劫になるような朝でした。
ちょっと予定を変更して、少し静かに過ごしてみようと、朝から栗の皮剥きをしました。
昨日、スーパーに並んでいた栗を見て、夫が「今年はまだ栗の入ったご飯を食べていないなぁ」と言っていたので、早速栗おこわを作ってあげようと思ったのです。
いまはあらかじめ皮の剥いてある栗もありますが、結果を求めずにそのプロセスに意味を持たせることも時に必要だと感じることがあります。
私の場合、栗の皮剥きもその一つです。
栗の鬼皮は頑固で、さらにはその下の渋皮も一筋縄ではいきません。
これはなかなか骨の折れる作業ですが、私はこのような作業がわりと好きなのです。
それは、無心になれるから。
そんな時間の中で、さまざま物事で埋め尽くされ、混沌とした頭の中がきれいに浄化されると感じられるからです。
単純だけれど大変な作業というのは、なぜか無心になれるものです。
若い頃、ちょっとしたきっかけで、座禅のようなことをする機会がありました。
昨今人気のマインドフルネスや瞑想とはちょっと違ったものです。
とにかく、ただ心を「無」にして座っておれ。とそんなことだったと記憶していますが、これがなかなか難しく、朝食はなにを食べようか、新作のコスメを早く買わなきゃなど、次々と邪念が降りかかってきて、「無」どころか、いつも以上に心が満タンになって困ったものでした。
自分がまるで煩悩で形作られた人間なのではないかと、真剣に僧侶に相談を持ちかけたくらいでした(笑)
それ以来、一切そのような世界には足を踏み入れてはいません。
いま海外のビジネスパーソンの間でも、日本のそんな文化に着目している人が多くいるらしく「瞑想」が人気だそうです。
我が家の夫も友人などと体験してきましたが、それが心を整えることに有効であると、その効果のほどを物凄い熱をこめて語っていたことがありました。
「いつもバタバタ忙しくしているあなたにこそ、必要なことだ!」
そう力説されましたが、私はお断りしました。
「私が目を閉じるのは寝る時と死ぬ時。それ以外は決して目は閉じません!」
私は過去に大病を経験し、何度か手術をしました。その際に、背中から麻酔薬を注入され、視界にはっきりと映っていた無影灯がゆらゆら揺れて、そのまま消えてしまった瞬間を今でも思い出します。
それはまるで無理やり闇の中に引き摺り込まれたような感覚でした。
以来、目を閉じて心を無にするなどということはしたくないと思うようになりました。
人間にとって、心を休め、整える時間は必要であると思っています。
しかし、それは目を閉じていなくてもできることです。
私の場合、それが栗の皮剥きや、セーターの毛玉取りをするといった単純作業なのです。
一心不乱に一つの栗や毛玉に向かって、手を動かしていると、とても心が落ち着いてきます。
その作業の過程で、私は心の中に溜まった澱を捨て、心を身軽にするのです。
余計なものが一切取り払われれば、自然とそこにあるもの一つ一つがよく見えるようになるものです。
これぞ、心の断捨離、整理整頓です。
人の生き方に正しい答えなどありません。
人は皆、違う資質、性格を持って生まれ、違った環境で異なった経験をして生きているのですから、その答えもまた千差万別と言えましょう。
こんな風に生きていけば幸せになれる。
これをすれば癒しが得られる。
そんな答えなどどこにもありません。
だから、私は栗の皮剥きでいいのです。
自分の求めるものが、そにあるのですから。。。
心を慰めるものは一つではありません。自分なりの方法というものが誰にでもあるものなのです。
私が栗の皮を剥いていると落ち着く。
そんな話をすると、友人達は笑います。
笑った当人はといえば、玉ねぎを飴色になるまで炒めていると癒されるなどと言います。
また別の人は、猫の肉球をいじっていると癒されるという人もいます。
まさに千差万別。
他人から見れば馬鹿げたことでも、その人の心にだけ作用するものがあるのです。
私は幸いでした。。。
美味しい栗おこわを作ったり、家族に毛玉のない服を着せるという目的を果たす過程で、自身が癒しを得られるのですから。
10月に入ってから、色々とやらねばならないことも増えてきました。私にとって一年のうちでおそらく10月から年末までが一番忙しい時期です。
この時期に栗の皮を剥くのは、そんな忙しない毎日を正し、整理するのに最適です。
ああ、だから毎年剥いているのか。。。
納得です。
無意識ながら、美味しい栗おこわを作りながら、さらには心を整えられるとは、なんとも嬉しいことです。
ちなみに今日は、芥川賞作家である羽田圭介さんの生まれた日です。
17歳で文藝賞を受賞したことで、当時は最年少受賞者として話題になったのを覚えています。
その後、芥川賞作家となった羽田圭介さんですが、私は作家の先生というより、バスに乗る人という印象が強いのです。
きちんと観たことはないのですが、つけっぱなしのテレビから流れていたバス旅番組で何度かお見かけしたことがあったので。。。
俳優さん達と共に、一日数本しか運行していないバスを乗り継いで、目的地を目指すという番組なのですが、その中の羽田圭介さんはちっとも作家らしくなく、文藝賞を最年少で受賞した早熟さの微塵も感じさせません。
昨年にはYouTubeチャンネルを開設したといいます。作家も読ませるにとどまらず、聴かせる観せる時代になったのだなと思ったものですが、それも納得です。
今の若い人にはたくさんの娯楽があります。
わざわざ本を読まなくても、エンタメは選り取り見取り。
そんな時代の流れで、昔に比べると本を読む読む人が少なくっているといいます。
そうしたことを踏まえると、羽田圭介さんのYouTube参戦は新しい読者を取り込む試みとしてはいいのではないかと思います。
これからの時代は、おかしなこだわりや既成概念など持たず動ける人が勝つのかもしれない。。。そんなことを思ったのでした。